自ら障がいを持って生まれ、それゆえに起業した訪問介護事業。
弊社代表取締役社長・溝口伸之がこれまでたどった道のり、会社設立のきっかけ、そして今後の目標について。
仲間の死と、遺族の悲しみ。
「自分は何ができるのか?」
私は「脊髄性筋萎縮症」という病気を持って生まれ、歩いたことはおろか、ハイハイもしたことがありません。幼少の頃から車イス生活で、福岡県粕屋郡の肢体不自由児施設で暮らしていましたが、小学3年生のときに、筋ジストロフィー専門病棟のある筑後市の国立病院に移りました。
病気のことを身近な問題としてとらえることができなかった私が、「死」を自分のこととして感じるようになったのは、中学1年生のとき。初めて同級生が亡くなったのです。遺族の人たちの「こんな身体に産んでごめんね」と泣く声が聞こえてきたとき、「ああ、俺も死んだら母親がああやって悲しむのかな」と思い、子ども心に考えたのは、「俺はいったい、この先何ができるのか」ということでした。
当時、通っていた養護学校は中学部までしかなく、高校へ進学したい人のほとんどが、病院での療養生活をしながら、通信教育を受けていました。でも、私は「自分の力は社会で通用するのか。自分の力を社会で試してみたい」という思いが強くなっており、普通高校を受けることにしたのです。私の母も協力すると言ってくれました。母は、小さい頃から私の望むことを応援してくれており、そのおかげで、私も障がいがあるからと言って卑屈になるとか、悲しむとか、そういうことはありませんでした。
そうして普通高校に進学したのですが、高校3年生の夏、悲しいことがありました。母が病気で亡くなってしまったのです。兄弟や叔母、担任の先生が協力してくれたので高校は卒業できたのですが、そのときの私の目標は大学進学。しかし、大学はあきらめざるを得ませんでした。
せめて仕事をしようと考え、職業安定所にも行きましたが、進路はなかなか決まりません。途方にくれ、当時 介護をしてくれていた姉とはケンカばかり。そんなある日、姉は泣きながら「申し訳ないけど、病院に戻ってほしい。これ以上私たちに負担をかけるつもりね」と言ったのです。何も言い返すことはできませんでした。まだまだこれから先の人生がある兄弟に対して、私が人生の足かせになることは許されないと思いました。姉は当時、知的障がい者の施設で働き始めたばかりで、夜遅くに帰ってきて、自分の食事、入浴、それから私の入浴、夜中は体位交換、そんな状態で、私も姉も、お互いに追いつめられていたのです。そのとき、そう言わざるを得なかった姉もつらかっただろうと思います。