生まれて初めての挫折。
大阪で受けたカルチャーショック。

院内新聞「逢飛夢」会議の様子

私は病院に戻ることになりました。このときに生まれて初めて、自分の身体をうらめしく思いました。私のやりたいことは「大学や専門学校に進学し、そして働く」という、そんな何気ないことです。それが介護者がいないということだけで叶えられない。「努力さえすれば何だってできると思っていたのに、どうしようもできない。それがこんなにも苦しく悲しいことなのか。生まれて初めての挫折で、自分自身に絶望し、生きる気力を失ってしまいました。当時友人から「目が死んでる」と言われたことさえありました。

立ち直るきっかけがあったのは、それから一年後。筋ジストロフィーの同級生が亡くなったときでした。がんばっていた彼のことを思い出しながら、「今、俺はがんばってるのか」と自分自身に問いかけてみたとき、「もしかしたらがんばりが足りなったのかもしれない。だとしたら、俺にはまだがんばる余地があるんだ」と思いました。それと同時に、亡くなった母にも申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。そのときに、「自分自身の試練と思って、もう一回だけがんばってみよう。今あることを全部受け止めて、やれることをやってみよう」と、そういう気持ちになれたのです。

病院での院内新聞「逢飛夢」を編集し始めたのはその頃です。病院の仲間とグループを作り、新聞の編集、発行に奔走し、それなりに充実していました。けれど、そのはずなのに、なぜかふと空しくなり、満たされない気持ちになるのです。そのときに、「ああ、やっぱり自分の思いを捨てきれていないんだ。社会の中で自分の力を試したいんだと思いました。しかし、社会環境は整っておらず、その思いをどうやって達成していけるかわからないまま、時間だけが流れていきました。

そんなあるとき、社会福祉協議会に勤めていた知り合いから、「大阪は自立している障がい者が多い。一緒に大阪に行ってみないか」と誘われ、行ってみることにしました。その大阪で、大きなカルチャーショックを受けたのです。確かに自立している人も多く、環境も整っていましたが、何よりもショックを受けたのが、お会いした障がい者の方からの「やりたいと本当に思っているなら、どこだってできるよ。大阪に来ればいいし、そうじゃなくてもできるだろう」という言葉。とてもショックでした。大阪のそうした文化は大阪の人たちが切り拓き、道を作ってきたわけです。そのとき痛感したのは、どんなに理想や希望を言ったところで、「行動なき言葉は戯言に過ぎない」ということ。そして、何かが私の中で弾けました。それが24歳のときです。

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